10分間トリップ
エスカレーターで週末夜の喧騒も来ないホームに下りて、階段を裏に回る。
混んだ電車で席にありつくために、無意識にやるようになった癖。そんなことしなくても座れる週末くらい、する必要も無いのに僕は裏へ回り込んだ。 耳にはiPodから伸びたイヤホン。手には文庫本。藤原新也の新東洋街道。 ホームを見渡すと、スーツ姿も酔っ払いも居ない。普通の服装や態度で居るホームの人間が妙に匿名的に見えて、この人たちは何処へ行くために並んでいるのだろう?何をする為に?そんな考えが頭の中をよぎった。 北千住は常磐線、伊勢崎線などが東京の郊外、ベッドタウンと呼ばれるエリアへ線路を延ばしている。東京や上野発と比べると、列車の行き先はそんなに遠くない。この時間、大抵の人間は家に帰るためホームに立っているはずだ。何も僕と目的は変わらない。 イヤホンから流れる音楽が、周りの音を遮断する。OrbitalのBrown Albamだったかがアルバムごと選ばれて流れていたと思う。あまり聴いていないくせにiPodに入っていたものだから、取り合えず、で流している。違和感はあったが、気分に合う曲を選びなおすのも面倒だった。どうせすぐ家についてイヤホンを外す。 電車はまだ来ない。本を開いて、続きから読む。しおりを挟んだ場所は、藤原新也が上海を出て広州に向かう列車に乗るところだった。くすんだモノクロの上海から列車に乗って広州経由で上海を目指す。 イヤホンの向こうから何か音がする。誰かがスピーカーを通して話しているようだ。もうすぐ電車が入ってくることを知らせるアナウンスか何かに違いない。意味は聞き取れなかったが、そう納得して本に目を落とした。 列車は農村地帯を抜ける。単調なコトコトとレールの継ぎ目を転がる車輪の音が聞こえてくるかのようだ。車窓を眺める描写が旅の風景を思い出させる。 突然、人が集まる雰囲気を感じて目線を上げた。どうしたのだろう、と辺りを見渡すと、何人かが僕の横に後ろに並んでいた。地下鉄からの乗換え客か何かだろうか。しかし横の列には人が居ない。人の流れは大河のようにゆっくりで、雨水を疾らす日本の急流のようでは無い。人の動きから非常の出来事でないのだろう、と適当に納得して目線をおろした。 しかし少し後、やってきた列車を見て僕は違和感を感じたのだ。何せ扉が一両に二つしかない。都内を走る列車なら普通、3つか4つは扉がついているものだ。アナウンスの後で人がこちらへ向かってきたのは、4つ扉用の入り口に並んでいた人達だった。アナウンスを聞いて彼らはやれやれ、と並びなおしたのだろうか。 この扉が2つしかない列車の社内には、都会を走る列車にしては豪勢にボックスシートが並んでいる。その割りに人が多くないものだから、なにやら何処かへ向かうような気分になった。 先を越されるな!狭い通路を早足ですり抜けて、進行方向を向く窓際の席に腰掛けた。クッションが少し軋む。椅子の前のテーブルは折りたたみ式だ。重箱を広げても十分な大きさがある。僕の座った、車両の真ん中から少し後ろの席は、社内全体が見渡せた。 本の続きを追うと、藤原新也は広州で香港行きの列車に乗っていた。プラスチックの椅子、よく効くエアコンに、車内放送のTV。90年代や2000年代に出来た鉄道によくあるあれか。 少し停車していると、その間に乗ってきた客で、車内の席は8割ほど埋まった。 昔に作られたであろうこの列車の中では、平成21年の今でも昭和の雰囲気が漂う。疲れて居眠りをとる人は、地下鉄で見かけるものと違って、夜汽車のそれである。いったい何時間走るのだろう・・・そんな錯覚を覚え始めた頃に列車は発車した。 窓に対して座る方向が縦と横では、見える景色が大きく違う。それは心持の問題で、実際に見える景色は勿論変わらない。北千住をでてすぐ、荒川にかかる鉄橋をまたぐと、電車はスピードを上げる。車輪が線路の継ぎ目をまたぐ音に、今まで合わなかった音がシンクロを始める。線路際に経つマンションの照明、遠くに見える街灯が色々な速さで通り過ぎる。近くは一瞬に。遠くはゆっくりと。夜汽車は星と星の間をすり抜ける。 ふと気付くと、ずっと手に持っていた本を置き去りにしていた。目を落として考える。少しでもこの列車に乗っていたい。この雰囲気の中に身を置きたい。何処かへ行きたい。そんな欲望が頭をもたげた。 いける限りのところへ行ってしまおう。今日は土曜日だ、何かあっても明日帰ってくれば良い・・・。 少しノイズの混じるスピーカーから車掌の声で流れる、到着を知らせるアナウンスは、一層に感情をあおり、そして僕に決断を急がせる。 シンクロしていた音楽と、レールの音は、段々と離れ始める。さっきまで規則的に刻まれていたレールの音は、不規則な音を含み、段々とメロウな音になる。 ポイントを過ぎて、通過する側から停車する側へレールを移る。光が見える。ホームだ。「降りるべき駅」だ・・・。 2つ扉の車両では出口までが遠い。もはや決断の時間は残されていない。僕は出口に向かった。夢見心地な時間から僕を引き戻したのは腹の音だった。グウという無粋な音は、僕には燃料が残っていないと知らせるのだ。 扉が開き、僕は降りる。名残を惜しむようにホーム際をゆっくりと歩いた。ホームの照明に照らされて、1分後、列車は動き始める。駅の白い光は、列車を舐めるようにして照らしていた。 銀河鉄道が出て行き、静かさを取り戻したホームに立っていると、機械音がエレベーターの到着を教えた。カイサツカイヘマイリマス。もうそこには日常と異なる部分は存在しない。僕は現実へと戻った。 10分間のトリップ。 |