僕が遠くへ行く理由
旅は、単なる長い散歩のようなもの。
距離の違いだけで、あとは大した違いが無いのではないか? 「感度」 大した違いが無いのに僕が海外へ行く理由は、感じる物事が解りやすいくらいにnewだから。言い換えれば、「刺激を受けるものに、触れられる」ということ。 これは、近所を散歩してもnewに触れることが出来ない、といっているのではなくて、全く逆。近所を散歩して新鮮な驚きを感じることは多々ある。ただ、近所を散歩するときは「日ごろ見慣れているもの」がカモフラージュしてnewに気付きにくくしている。それでもnewに気付く人は気付いて、近所の散歩で毎日新鮮な驚きを得ている。その逆もまた然りで、newに気付かない人はどこに行ってもそれが見つからないだろう。 「僕」 僕は残念ながら、近所に隠れているnewを簡単に発見できるような人間ではないので、解りやすくnewを感じられる場所に行くのです。 「消化能力」 newを多く感じるのは良いけれど、それだけではいけない。 newというinputを自分に取り込んで、己の表現というoutputを作り出すために消化をしなくてはいけない。 食べ物が飲みこまれ、消化され、肉となるように。 心で感じる物(=new)が食べ物と違う点は一つ。食べ物は自分の消化能力を超えると消化不良を起こすが、感じる物の消化は自分次第でどれだけでも消化できる。掘り下げようという意思を持つことで可能となる。 つまりは・・・ 解りやすいか、解りにくいかの差はあっても、どちらにもnewは存在していて、気付く人は気付く。そのinputを有効とするのは自分次第。 海外へ行けばどうにかなる、ということは無いけれど、どうにかすることは自分次第で出来る。 やります。 大きくなって帰ります。 |