心の波
字面だけ見ると、なんとなく矛盾があるようなので、人が嫌いなのはどんな状態なのだろうと考えてみる。
人付き合いをするとき、自分の他に相手が居る。自分だけで精一杯なのに相手がいて、それに対して労力を使う。労力というのは注意でも関心でも何でも良いが、要するに気を使うということ。 言い換えれば、人が嫌いな時期=人に気を使うのに疲れた状態なのかもしれない。 気を使うから嫌になるのであれば、気を使わなければ良いのだけれど、生憎そこまで便利に出来ていない僕の頭はどうしても気を使ってしまう。 対等でありたいと想いながら、変に気を使ってしまうことで天秤の水平はぶれをみせ、自分の目をもぶれさせる。 気を遣って天秤をぶれさせてしまうくせに、対等でありたいと願う。 この矛盾は、相手への暗黙的な、しかししっかりとした期待として僕の中に現れる。コールとして見られないような独り言に対してレスポンスを期待してしまうのだ。そしてそれが返ってこないことに対してがっかりしてしまい、積もり積もって「嫌だ」となる。 これを解決するには何が必要なのだろう。 相手のレスポンスを全て諦めれば良いのか。 それともいつか返ってくると信じレスポンスを待ち続ければ良いのか。 今の僕にはどちらも徹底できないし、それぞれは悲しすぎたり、お人よしすぎるものに映る。 悟りを啓いた釈迦は、どちらを選んだのだろうか。どちらにしても言えることは今立っている位置から果てしなく遠いということだけ。 今できることは、うろうろ心を迷わせながら時が過ぎるのを待つことだけ。 解決は遠い。 |